『発表せよ!大本営!』用語集&モデルとなった人物紹介

『発表せよ!大本営!』は1942年当時の海軍報道部の中の物語ということで、結構当たり前に専門用語がバンバン出てきます。
もちろんそれを全部わからなくても話はわかるのですが、せっかくなので用語を紹介します。

用語解説

大本営
旧日本軍の最高司令部。天皇直属の最高統帥機関として、戦時中の陸軍・海軍を統括する形で設置された。しかし陸海軍の派閥争いや軍部と内閣の対立、また指揮系統・情報管理の混乱などにより、戦争指導の一元化は結局失敗した。

大本営発表
日中戦争から太平洋戦争(1937-45年)にかけて、大本営が行った戦況発表。軍の公式見解として、この内容が新聞・ラジオなどを通じて国民に伝えられた。戦況の悪化に伴い、戦果の水増しや「転進」「玉砕」など無理な言い換えなど、徐々に内容は改竄・隠蔽・捏造が目立つようになり、「権力者による虚偽報道」の代名詞へと化していく。

太平洋戦争
1941年開戦した日本とアメリカ・イギリスを中心とした連合国間での戦争。真珠湾攻撃に始まり、1945年日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏したことで終結。日本では当時「大東亜戦争」と呼称。現在では「アジア・太平洋戦争」という表現も広く使われる。

ミッドウェー海戦
1942年6月、ハワイ諸島北西のミッドウェー島付近で行われた日本とアメリカによる海戦。日本海軍は空母4隻喪失をはじめとする大損害を被り、真珠湾攻撃の成功から一転、ここから連合国の反転攻勢に苦しむことになった。また戦艦を中心としたいわゆる「大艦巨砲主義」から空母を中心とした航空戦への戦史上の転換点と見る向きもあり、その意味でも太平洋戦争の分水嶺とされる。

陸軍と海軍
前述のとおり非常に対抗心・縄張り意識が強く、事あるごとに対立していた。所作や言葉遣いのレベルでもいろいろと違いがあったようで、海軍で陸軍の作法を行うと「それは陸式だ」と嫌われたそう。以下、事例を示す。
①「自分は~であります」という自己紹介は完全に「陸式」。海軍では一人称として「自分」は使わず、「わたくし」や「わたし」。また「~であります」も陸軍の言葉遣い。
②「~殿」「~閣下」は陸式。海軍は基本的に階級や役職で呼ぶ。
③「わが軍」「皇軍」という表現を海軍は使わない。「海軍」や「帝国海軍」。

海軍作戦部
帝国海軍における作戦の立案や実際の用兵を行う「軍令部」の第一部第一課の通称。その名の通り作戦立案の中心となり、戦争指導における強い権限を有した。

軍務局
海軍省に属し、軍令部に対して「軍政」つまり予算や人事の管理を行った。また教育や思想統制も担当したが、軍部ではなく官僚組織である。

海軍報道部
戦時中、主に大本営発表の内容作成・メディアでの発表に携わった部署。報道部には別室が設けられ、リクルートした元新聞記者や文筆家が、発表原稿の作成やスピーチライターとして活動していた。しかし当時の日本軍は、報道部など情報担当を軽視する傾向もあった。

黒潮会
こくちょうかい、と読む。海軍省の新聞記者クラブにあたる。報道部の発表を事前に入手したり、省内に占有スペースを与えられるなど、その癒着体質は強く、大本営発表が報道として機能しなくなる原因のひとつとなった。

敵性語
敵性言語とも。大戦中、英語やフランス語など連合国側の言語をこう呼び、外来語の使用を忌避した。野球の「ストライク」を「よし」、「ボール」を「だめ」と呼び変えたことなどが有名。これらは国や軍による政策によって禁止されたのではなく、民間のいわゆる「忖度」によって言い換えが進んだ。ちなみに海軍では「敵の言葉を知らずして勝てるか」とむしろ積極的に使われていたが、陸軍での使用はあまり好まれなかったようだ。

空母・戦艦・巡洋艦・駆逐艦
定義は時代によって様々だが、以下に第二次大戦期の代表的な分類を示す。
空母…航空母艦の略。航空機を艦載し、その輸送や離着陸基地の役割を持つ。戦艦と合わせ主力艦とされる。
戦艦…大口径砲と装甲を兼ね備えた艦隊戦における主力。しかし第二次大戦から徐々に航空戦が主体となり活躍の機会を失った。
巡洋艦…遠洋航行力と攻撃性能を持たせた艦。砲口径によって軽巡洋艦と重巡洋艦に分類される。
駆逐艦…主に対潜水艦・対空迎撃を目的とする比較的小型の艦。

沈没・大破・中破・小破
「沈没」は軍艦が水没、完全に喪失した状態。「大破」は沈みはしないものの戦闘能力を失った状態、「中破」は戦闘能力をほぼ失った状態、「小破」は戦闘続行が可能な損害、という解釈が一般的。大本営発表ではミッドウェー以降、改竄が当たり前になっていく。


登場人物モデル紹介

田代格
海軍報道部・発表主務部員。巡洋艦「三隈」の砲術長として活躍後、帰国し報道部員に。ミッドウェー海戦の大本営発表作成にあたり、作戦部や軍務局との折衝の中心となった。

平出英夫
イタリア駐在を経て、帰国後に海軍報道部報道課長に就任。社交的な性格と演説の上手さにより、太平洋戦争期の大本営発表に大きく関わった。

富岡定俊
太平洋戦争開戦時の軍令部第一部第一課長。対米強硬派として、ミッドウェー海戦にも作戦部として関わるも、ハワイ攻略には慎重な姿勢だった。「人格見識ともに優れた戦術家」と評価される。

神重徳
軍務局やドイツ駐在員、報道部員などを歴任後、海軍参謀に。明朗で努力型の優秀な指揮官であった一方、「内地では偉そうなこと言うが、現地では弱い」「状況が変わるとくるっと変える」などの声もあった。戦後、乗っていた飛行機が不時着、行方不明。

岡敬純
軍人としては虚弱体質だったが、交渉の巧みさが評価され、軍令部員に始まりほぼ中央で勤務。軍務局長に就任後、親ドイツ・対米開戦派として組織改革を行う。A級戦犯。

高田利種
ドイツ駐在・艦隊参謀を歴任後、軍務局第一課長に就任。対米強硬派として、日米開戦を想定した報告書の作成に関わる。

平櫛孝
軍務局員、陸軍報道部員を経てサイパン戦に参加。戦後『大本営報道部 言論統制と戦意昂揚の実際』を執筆。

淵田美津雄
第一航空艦隊赤城の空中指揮官として、真珠湾攻撃に参加。有名な「トラトラトラ(=ワレ奇襲ニ成功セリ)」の暗号も、淵田機から打電された。その後ミッドウェーにも参戦するが、盲腸によって出撃できず。また沈没した赤城から脱出する際、両足を骨折している。戦後はキリスト教の洗礼を受け、日米両国の相互理解・平和運動にも関わった。